
クリスマスが近づきました。クリスマスはキリストの誕生を祝う日ですね。あなたはキリストを待っていますか?それとも何を待っていますか。プレゼントですか?
実は、キリストが生まれたとき、キリスト(メシヤ・救い主)を待っている人は、ほとんどいませんでした。
待っていたのは、当時は身分のいやしい羊飼いと、ユダヤ人ではない数人の異教徒だけでした。
キリストの誕生を祝うと言いながらキリストを待っていないならば、キリストが生まれたときに何も知らずに暗闇の中にいた人びとと同じことになってしまいます。多くのユダヤ人はキリストの救いの恵みにあずかることが出来ませんでした。
現代、キリストを待つというのは、キリストの再臨を待つこと、新しい地球が再創造され再びエデンの園に住むのを待つことです。キリストは自分には必要ないというなら、残念ですが、その時キリストの栄光の輝きで滅んでしまいます。
以下の引用は、「各時代の大争闘」(EG.White著)より。(改行、段落などは記事の投稿者による)
キリストに対する期待、生命の君を迎える準備は、どこにも見られない。驚いた天使は、この恥ずべき報告をもって天に帰ろうとする。
とその時、夜羊の番をしながら星空を仰ぎ、メシヤが地上に来られるという預言を瞑想し、世界の贖い主の来臨を待望している、羊飼いの一群を見つける。
ここに、天来の知らせを受ける用意のできた一団がいるのである。
そこで、突然主の使いが現われて、大いなる喜びの福音を宣言する。天の栄光が平原に満ち、数えきれない天使たちがあらわれる。あたかもこの喜びは、ただ1人の天使が伝えるにはあまりにも大きすぎるかのように、おおぜいの声が高らかに、やがてすべての国々から贖われた者たちの歌う賛美の歌を歌う。
「いと高きところでは、神に栄光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ 2:1 4 )。
このベツレヘムの驚くべき物語は、なんという教訓を教えていることであろう。それはなんとわれわれの不信、高慢、うぬぼれを譴責することであろう。
それは、われわれもまた、恐るべき無関心に陥って、時のしるしを見分けることができず、そのために神のおとずれの日を知らずに過ごすことがないように、注意するようにとわれわれに警告を与えている。
天使が、メシヤの来臨を待望している人々を見つけたのは、ユダヤの丘の卑しい羊飼いたちの中だけではなかった。
異教徒の国でも、彼を待っている人々があった。彼らは、高貴で富裕な賢者、東方の哲学者であった。この賢者たちは、自然の探究者であり、神のみ手のわざの中に神を認めたのである。
ヘブルの聖書から、彼らは、ヤコブから星が現われることを学び、「イスラエルの慰め」であるばかりでなく、「異邦人を照す啓示の光」であり、「地の果までも救をもたらす」おかたが来られるのを熱心に待望していた(ルカ 2:25、32、使徒行伝 13:4 7 )。
彼らは光を求めていた。そして、神のみ座からの光が彼らの歩く道を照らした。真理の擁護者、また解説者として任じられたエルサレムの祭司や教師たちが、暗黒に閉ざされていた時に、天からの星はこれら異邦の旅人を、新たにお生まれになった王の誕生地へと導いたのである。