2014年07月24日

イエズス会の日本侵入@Youtube動画

フランシスコ・ザビエル


イエズス会の日本侵入@Youtube動画を見た。イエズス会が日本侵略を計画していた、というのは信じがたい人も多いはずだ。しかし、


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歴史研究者の中には、島原の乱と法王の関係を指摘する人もいる。
「一揆軍はこれを機に日本国内を内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる。NHK「その時歴史が動いた(2007年1月24日放送)」も同様の説を採用しており、、イエズス会と縁の深いカトリック教国(ポルトガル王国)の援軍が来るまでの間籠城していればよいという作戦であったとしている。(ウィキペディア)」

もう一度、われわれは秀吉から家康までの歴史をイエズス会との関係で読みなおす必要がありそうだ。

世界に手を伸ばし支配するバチカンの侵略。その背後にはイエズス会がある。なんと、日本を侵略しようとしたのだった。そのやり方は、非常に単純だ。まず、貿易商人として彼らはめずらしい商品を持って来る。商船には宣教師も同乗している。まず、経済的利益の拡大。それからカトリックの教えを拡大するというやり方だ。

時は1549年、織田信長はイエズス会宣教師たちを日本に迎え入れた。京都を提供し京都がカトリック宣教の中心となった。領域全体に彼らの宗教を拡大するための権利を与えた。その結果、ローマ・カトリックへの改宗者は数千人にも及んだ。

改宗者たちは、日本の支配者(将軍)の支配下にあるものの、実は法王の命令に絶対服従することが要求されていた。もし、日本の支配者が改宗したときには、日本は法王の支配下に置かれることになっていた。

このイエズス会の支配はアメリカ合衆国においても成功を収めた。アメリカは清教徒革命により、法王の支配から自由を求めて、新大陸へ渡ったのだった。それ故、イエズス会はアメリカを支配すべく即座に行動を起こした。米国大統領は米国憲法に従うように見えながら、実際は法王の命令に従うことになっていく。

イエズス会は慈善事業をおこない人々によい働きをする、しかし、けっして本来の目的をおもてに表さない。
その国の首長を改宗させれば法王の命令を聞かざるを得なくなる。そうすれば、その国を法王の支配下に置くことができる。もし日本の指導者、将軍がカトリックに改宗したら、日本は法王の命令に従わなければならなくなる。

各時代の大争闘下巻に、以下の引用文がある。ローマ・カトリックその中核はイエズス会だ。
「ローマ・カトリック教会は全世界にわたって根を張り、法王庁の支配下にあってその利害に役立つよう計画されている一大組織を形成している。
全世界のあらゆる国において、聖餐にあずかる幾千万の者たちは、法王に対する忠誠を堅く保つように教えられている。
国籍や政府がどうであろうと、彼らは教会の権威をほかのいっさいのものの上にあるものとみなさなければならない。
彼らは国家に忠誠を誓うかもしれないが、その背後には、ローマに対する服従の誓約があって、教会の利益に反する場合には、国家に対するどんな誓いも破ってもよいことになっている。」(改行は投稿者)



Jesuit bookplate, Innsbruck (Austria) / Provenance Online Project


支配権を確立する方法は単純だ。
1.日本人に順調な貿易を持ち込む。
2.科学、文学、宗教の分野で新しいアイデアを持ち込む。
3.カトリシズムに人びとを改宗し始める。
4.改宗者たちは、金融、政治的、経済的な成功と発展を手に入れる。
5.イエズス会の望みに応じない者は絶たれる。
6.最後は、その国を宗教的、経済的、政治的に乗っ取る。
支配者が危険を感じたら、攻撃に出る!

豊臣秀吉は、カトリックの政治的影響と、西洋遠国の法王のような政治的宗教的君主に忠誠を尽くすことの危険を、鋭く見抜いていた。

1587年に、秀吉は九州を訪問、カトリック共同体が最も恐ろしい宗教的迫害を実行していたことを見て驚いた。仏教寺院の残骸や破壊された仏像を、秀吉はあちこちで見た。

憤慨した秀吉は、仏教徒に対するカトリックの攻撃を非難した。また、宗教的不寛容と海外の権力への政治的忠誠を非難した。

1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はカトリックへの態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。豊臣秀吉の指示により、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された。


(日本二十六聖人の殉教と言われているが、上記のような流れからみると、処刑されたのは日本乗っ取りをたくらむイエズス会の一味であり、後に殉教という美名が付けられたものだ。)

処刑は、イエズス会によって日本乗っ取りさせないぞ、という秀吉の意思表示であった。秀吉はイエズス会が日本をのっとることを知っていたから、それを止める処置をとらねばならなかった。

処刑は長崎においておこなわれた。イエズス会はこれを決して忘れない。長崎への原爆投下はその報復とされる。


徳川家康は宣教師を保護する見返りに貿易の利益を望んだ。しかし、キリシタンの事件を機にキリシタン禁令を出すことになる。オランダ商船との貿易なら宗教抜きでおこなえるからだ。

しかし1612年に岡本大八事件(有馬晴信がからんだ疑獄事件)が起こると、関係者がどちらもキリシタンであったことから、家康は諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、原主水などキリシタンであった旗本が改易された。翌年になると側近崇伝の手による「排吉支丹文」によってキリスト教信仰の禁止が明文化され、全国で迫害が行われるようになった。
1619年に京都で52名が殉教し、1622年に長崎で55名が殉教(元和の大殉教)、1623年江戸でも55名が殉教した。


そのような背景のもとで、島原の乱が起こる。島原の乱は、過酷な収税に切れた百姓たちの一揆というだけでなく、背後にはキリシタン大名やキリシタンが多数いたため、キリシタンの反乱とされた。

一揆軍は日本国内を内乱状態にし、ポルトガルの援軍を期待した、と考える研究者もいるようだ。

1637年に肥前島原と肥後天草で百姓身分の者たち(農民やかつてキリシタン大名の家臣であった元武士たちなどから構成)3万人が蜂起した事件は幕府に衝撃を与えた。これが島原の乱である。

蜂起の直接的原因は島原藩と唐津藩(天草を所領)による残酷な収税制度にあったが、同地にはキリシタン大名であった有馬晴信、小西行長の統治時代に入信したキリシタンが多く、
一揆の盟約結成の求心力としてキリスト教信仰を基盤においた内部統制も行われたこと、、、
さらには幕藩体制のゆがみが明るみに出ることを幕府が恐れたことから「キリシタンによる反乱」と単純化されて規定され、原城陥落後に1名の内通者を除く参加者全員が殺害された。


島原の乱はイエズス会との関係を指摘するのも可能だ。ローマ教皇から一揆軍へ援軍を送るという内密があったという。

一揆軍はこれを機に日本国内を内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる。NHK「その時歴史が動いた(2007年1月24日放送)」も同様の説を採用しており、当時の著書カリバーリョ弁駁書を元に原城に立て篭もった要因をローマ教皇から一揆軍へ援軍を送るという内密があり、イエズス会と縁の深いカトリック教国(ポルトガル王国)の援軍が来るまでの間籠城していればよいという作戦であったとしている。


1639年ポルトガル船の入港を禁止する。(第5次鎖国令)

この事件を重く見た幕府は1639年に寛永の鎖国令を発してポルトガル船の来航を禁止、九州沿岸の防備体制を整えると共に、キリスト教の根絶に乗り出した。

実例として、キリシタンか否かを調べる「踏み絵」を実施した。やがてキリスト教布教と直接の関係がないオランダの商館も平戸から長崎の出島に移転され、商船の入港が制限されるようになった。


イエズス会の侵略から日本を守っていたのは、秀吉であり家康だった。鎖国やカトリックの迫害とされる諸事件は、イエズス会の日本侵略計画ゆえに引き起こされたことだ。

このように見てくると、今までの日本の歴史の中に、イエズス会の暗躍が織り込まれていると考えられる。今までは、イエズス会の日本侵略などは、まゆつばものか、トンでも情報かと思っていた。しかし、イエズス会を調べる研究者たちの説も、今では聞き流せない情報になってきている。

(日本史の諸事件は、ウィキペディア調べ。)

イエズス会の日本侵入@Youtube動画


動画は日本語通訳付、テキストの日本語翻訳が少々わかりにくい部分もあるから、そのつもりでお聞きください。興味のある方は、イエズス会の日本侵入AYoutube動画もご覧ください。




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イエズス会とはなにか?



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posted by signs at 14:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教界の動き | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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